連載「つくる つかう たのしむ」

第6回 かごの話 横須賀雪枝

「このかごはどんな使い方をするものでしょう?」と問われて、即答できる人はそういないと思う。写真のかごは「肥料ふりかご」と呼ばれる畑に肥料を撒くためのもので、宮城県仙台市郊外で作られている。

『民藝』という雑誌の編集者だった頃、手工芸品の調査に同行させてもらい、このかごの作り手を探し訪ねたことがある。都市化が進む仙台の街からほんの少し校外へ車を走らせただけなのに田畑が広がるのどかな地域だ。

お訪ねしたのは、農業のかたわら、このかごや箕を作っているという50歳代の女性だった。突然の訪問に驚かれながらも、我々を招き入れてかごを作るところを見せてくれ「近所のおじいさんに作り方を習い、作りはじめた。かご作りが好きなんです」と話してくれた。

このかごの材料は、孟宗竹や真竹のような太くて強い種類の竹ではなく、篠竹という柔らかく細い竹を使う。その用途のかごとして、このかたちはさほど特殊ではないらしいが、いわゆるかごは、編みながらそのかたちに立ち上げていくものが多いのに対し、これは平面状に編んでから、箱を作るように四方をたたみ、麻糸で縫うという少し変わった方法で作られる。竹の間に桜の皮をはさみ、そのすき間から肥料がもれないように、さらに間に葛糸をはさんで編んである。その作り方は「編む」というより「織る」という感じ。桜の皮と篠竹はまさにたて糸とよこ糸の関係である。

とても絵になるかごだ。それは木を荒く削っただけのハンドルのおかげもあるだろう。裏の山で採ってきた木を、持ちやすいように削っただけのハンドル。このシンプルさがいい。ぜひひとつ家においてマガジンラックや乱れかごにしたりして、使ってみたいと思ったが、そんな風に転用ばかりされて本来の目的のために使われなくなるのも寂しいと思い質問したところ、地元では農作業用としても、ちゃんと販売されているらしかった。実際にこれを使って畑に肥料を撒く姿を見ることはできなかったが、勝手にその姿を想像してみる。「落ち穂拾い」を描いたミレーの絵の中の農民達が持っていたっておかしくない美しさだ。

かつて日本中で作られていた竹細工は、作り手の高齢化や消費の低迷などにより、消えていったものが少なくない。一度作り手を失って途絶えた仕事を復活させるのは至難なことである。人々の暮らしが激変しているのだから仕方ない面もあるが、日本の美しい田園風景とそこで作り使われる手仕事はぜひ残し大切に守って欲しいこの国の財産だと思っている。

第5回 コド・モノ・コト 横須賀雪枝

子どものための道具であっても、簡素に美しく、そして使いやすく、大人もほしくなろうようなものであってほしいと常々思っている。しかしそういうものにはなかなか出会えない。

写真は大人が子どもに食べさせる時に使うための匙。朴の木を刳って木地に漆を塗って仕上げている。漆器の産地、輪島で製作されたもので、デザインしたのは「コド・モノ・コト」というプロジェクトの事務局で、子どものためのワークショップを主宰する増田多未さん。食べやすいように指のかかる部分に厚みを持たせ、また子どもが自分食べる場合も持ちやすいように柄の部分が弧を描いている。成長してからも長く愛用してもらえるものを目指したと増田さんは言う。

この匙に私が出会ったのは「コド・モノ・コト」のプロジェクトに参加したのがきっかけだった。このプロジェクトはその名前の通り、子どもの「モノ」と「コト」について考え、活動するというもので、「子どもの身のまわりの日用品こそ愛着のわく良いデザインのモノを使ってほしい」という想いを持ったデザイナーや作り手が集まって、2005年5月にスタートした。世の中の子ども向け商品は刺激が強過ぎたり、生活感を無視したような色使いやかたちだったりするものが少なくない。できることなら、子どもにとっても大人にとっても、良いと感じるモノをもっと増やしたいと、日用品のデザインを提案したり、子どもを対象にしたワークショップを開催したりしている。

子どもが子どもでいる期間というのは意外と短くて、あっという間に育ってしまい、おもちゃや様々な子ども向けの日用品からすぐに卒業していってしまう。だからこそ、子どもまわりのモノは子どもが使わなくなった後もすぐに捨てられてしまうようなものではなく、家族の誰かにずっと使いたいと思ってもらえるようなものがいい。思い出の品としてだけでなく、「使いたいモノ」として残るものでありたい。この漆の匙もジャムスプーンにしたりして、それぞれの家庭できっと使い続けられていくだろう。

子育て中の親はいつも時間に追われがちである。でもそんな時にしかできない育児を通しての小さな発見や、思索を大切にして仕事や暮らしに反映できたらいいと思っている。

第4回 割れた湯吞 横須賀雪枝

写真は民藝運動ゆかりの陶芸家、浜田庄司作の鉄絵黍紋湯吞。浜田庄司は私が敬愛する陶芸家で、これは撮影のためにお借りしたものだが、私には浜田庄司の湯吞に忘れられない思い出がある。

それは私が外村吉之介(染織家)のもとに弟子入りしてまもない19歳の時のこと。まだ民藝についてもほとんど知識のない頃のことである。その日私は夕飯を作る当番で、台所でその湯吞を他の食器と一緒に食卓へと運ぶために配膳台の上でお盆に載せて並べておいたのだが、もののはずみでお盆に体があたり、お盆ごと床に落ちてしまったのだった。けたたましい音とともに、その湯吞はこなごなに割れた。私のたてた音は隣の部屋にいた師の耳にも当然届いていた。すぐに「どうしましたか?」という師の声がした。私は湯吞を割ったことを正直に伝え、額を床につけて謝った。しかしこの時点での私は、怒られることへの恐怖心で萎縮していただけであり、自分の犯したことの重大さにまだ気がついてはいなかった。

師はそれを聞いて少しこわばったが、怒りは見せず「すぐに破片を拾い集めなさい」とだけ私に告げた」しかしその後に姉弟子が「あれは人間国宝の浜田庄司さんの湯吞で。浜田さんから直接いただいてとても気に入っているって先生から聞いたわ」と言うのである。私は血の気がひいた。悔やんでも悔やみきれない失敗について思い悩むと同時に、師はなぜ私に怒りをぶつけなかったのか、その意味を考えさせられることとなった。

若く未熟だった私は、もし頭ごなしに怒られていたなら、その場で平謝りしただろうけれど、自分がやったことは棚にあげて「肩書きや箱書きにこだわらず、物や人物を見なさい」といつも言う師も、結局は人間国宝の湯吞だから大切にしていたのか、と思ったかもしれない。しかし師は弟子に台所を任せた以上、仕方ないことと受け止め、怒りもしなければ嫌みをいうこともなかった。しばらく考えた結果、私はそれが弟子への深い愛情と、師の教えだったのだと理解した。

その後、湯吞みは継ぎ師によって元のかたちに戻されたが、割れる以前に戻ったわけではないことは私が一番よくわかっている。

そんな経験からもう十数年が経ち、私も親になった。先日息子の友人達が家に来て遊んでいる時、飾ってあった陶器にひとりの子の身体がぶつかり割れてしまった。ガチャンという音に一瞬凍りついたが、すぐに「大丈夫、たしたことではないから」と微笑むことができた。子どもたちを見ながら、遠い日を思い出し、今は亡き師にもう一度あって心から詫び、多くの教えを受けたことをあらためて感謝したいと思った。

(『言語』2007年4月号 大修館書店)

第3回 イカ墨のセピアインク 横須賀雪枝

私は『民藝』という雑誌の編集者だった頃に、民藝運動の同人達が大正から昭和にかけてセピアインクを好んで使っていたことを調べたのがきっかけで、自分もセピアインクが好きになり、この数年こつこつ調べてきた。そして3年程前、本誌にエッセイを書く機会を得たので、セピアインクの歴史について書かせてもらった。セピアとはラテン語で「イカ」または「イカ墨」を意味し、西洋ではイカ墨から作られたインクが広く使われていた。また舶来物のイカ墨インクを日本で愛用していたのは、夏目漱石とその門下、そして民藝運動家の柳宗悦や陶芸家のバーナード・リーチらであった。鳥取民藝美術館の館長であった吉田璋也は柳からセピアインクで描く文字や絵の美しさを教えられ、友人の化学者と共に昭和7年頃から研究開発し、昭和11年に特許も取って製造、発売していた。イカが大量に水揚げされる鳥取で生まれた日本初のイカ墨インクである。昭和30年代まで販売されていたことはつきとめたが、今では姿を消してしまったので、ぜひどこかでまた万年筆に入れられるインクを作ってほしいというところでエッセイは終わっていた。

しかし平成17年9月、鳥取でイカ墨からインクを作ることに再び成功し、製品化されたのだ。日本のイカ墨インク発祥の地で、復活をとげたのである。今回開発したのは、吉田璋也の思想を今に受け継ぐ鳥取民藝協会と、大村塗料という会社で、地元には昔の資料がほとんど残っておらず、特許庁のデーターベースにあった出願書などを参考にしながら独自に開発した。超微粒子加工し、昔のものより耐水性にすぐれ、万年筆に入れても詰まりにくいという。

容器も鳥取の手仕事にこだわり、最初の百個は県産の智頭杉を使った挽き物のインクポットに入れられ販売された。このポットは下地に柿渋を塗り拭き漆で仕上げてあるので、インクをはじき、汚れにくいという。これだけでもデスクに飾っておきたい美しさである。実際に使ってみると、もちろん匂いはないし、化学塗料のセピアよりも赤みがかった色に見える。柔らかくいい色だ。手紙や文章を綴ると、一味違ったものになるような気さえする。

特許庁の記録などが見つかったことで始まった復刻版開発。微力ながら資料さがしのお手伝いをした私に、完成後すぐ鳥取からインクが届いた。平成のイカ墨インクの誕生を我がことのように喜んでいる。

(『言語』2007年3月号 大修館書店)

第2回 「碗」と「椀」  横須賀雪枝

私の師、民藝運動家であり染織家の故・外村吉之介は、九十五歳で亡くなるまで、弟子達と毎日のように食事を共にしていたが、「食卓を美しく」との考えから、バターや醤油などの調味料を市販の容器のまま並べることを許さず、すべて陶器やガラスの器などに入れかえて食卓に出させていた。それらの器は、民藝の思想を受け継ぎ、暮らしに役立つ品を作っている日本各地の窯や工房のものばかりで、湯町窯(島根県)のガレナ釉がかかった黄色いミルクピッチャーはマヨネーズ入れになっていたし、壷屋焼(沖縄県)の三彩釉の蓋物には塩昆布や梅干しが入っていた。

師はいつも食事の時間をとても大切にし、私達にいつも楽しい話をしてくれた。また食卓を家族で囲むことの大切さや、美しい器に盛りつけることの意味なども語り、中でも「漆の器を食卓に取り入れなさい」とよく言っていた。

「朱塗りの味噌汁椀がひとつあるだけで、食卓は明るくなって食事も美味しくいただけます」と説いたが、「昨今の椀は中味がプラスチックで塗装も化学塗料のものが多く流通し、漆産業は大打撃を受けている」と嘆いていた。

そして「日本にはおワンを示す漢字が二つある。一つは陶器や磁器を表す『碗』、もう一つは木製の器を表す『椀』。でも最近は石でも木でもなくプラスチックでできたワンが多いから、プ偏っていうのを作らなければならないと思っているんだよ」と皮肉たっぷりに笑いながら話してくれた。

写真は、宮城県の北西部、川渡温泉に工房を構える小野寺公夫さんの作られたお椀で、我が家の愛用品である。とても丈夫でいくら使ってもちっとも漆がはげてこない。これは木地の見立てに始まり、天然の漆を吟味して使い、何度も何度も丁寧に塗り重ねているからに他ならない。下地を塗ってから研ぎ、また塗って、それを繰り返してようやく完成する。その根気のいる作業は出来上がった椀を見ても、すぐにはわからない。でもひとつの工程でも手を抜いてしまうと使い手に渡ってからその結果がでてしまうのだ。

お椀を両手で包むように持って味噌汁をすすった時、手に伝わる感触と柔らかな口当たりから技術の確かさが伝わってくる気がする。

食器洗い乾燥機の普及で、そこに入れることができない漆のお椀は肩身が狭くなりつつある。家事労働が軽減されることは歓迎だが、家族の汁碗だけは手で洗うという余裕が暮らしの中にあってもよいのではないかと思うのである。

(『言語』2007年2月号 大修館書店)

第1回 倉敷本染手織研究所のこと  横須賀雪枝

白壁の町並みが美しい倉敷美観地区。その中に「倉敷本染手織研究所」という小さな私塾がある。昭和28年に倉敷民芸館初代館長であった故外村吉之介が自邸を開放して開いたもので、染織と民芸について、夫妻と生活を共にしながら弟子入りのようなスタイルで一年間学ぶ学校である。私は丁度時代が昭和から平成にかわる頃、その研究所へ二年間在籍した。

「民芸」とは、昭和2年に思想家の柳宗悦「民衆的工芸品」を縮めて作った言葉で、庶民が作る健康的で無駄がなく威張らない美しい手仕事の品々のことを指す。そして民芸品の美しさを世に広めていくのが民芸運動である。

外村吉之介は、もともと牧師であったが、柳が民芸運動を始めるとすぐに参加して、それ以後は民芸ひとすじに生きてきた人であった。

師はいつも縞の着物にたっつけ袴という装いで、家具、食器、ごみ箱に至るまで、家のものはすべて美しい品々であった。日本各地の民窯で焼かれた陶器、世界中から集められた絨毯や布、師の眼にかなわないものは何一つ家の中に入ることはできず、それは私達の衣服についても同様で、派手な模様など着ようものならすぐに叱られた。師は厳しかったが「そのような服は貴女を引き立てません。無地や縞の方が美しくみえます」と説かれるとなるほどと納得してしまうのだった。そして色のきれいなブラウスなどを着ている時は必ず褒めてくれ、自分の選んだものが評価されることはうれしかった。戸惑ってばかりだった私も、師が実践する民芸的な暮らしを自然に受け入れるようになり、いつしかその虜になってしまった。

写真は私が研究生時代に織った木綿の着尺である。紺と朱を経糸にし緯糸は白で織った市松模様。一筬(ひとおさ)打ち込むだけではほんのわずかしか織れないが、黙々と織り続けると「糸」が「布」にかわっていく。気の遠くなる作業だが、織り上がった着尺を機から外す時、この手で布を生みだしたことを実感する。その瞬間が手織をする中で一番うれしい時なのかもしれない。

私は研究所を卒業後、染織の道に進むつもりだったが、民芸の面白さに惹かれていくうちに縁あって柳宗悦が創設した東京の日本民芸館の中で『民藝』という雑誌の編集をしながら、八年間を過ごした。育児のために退職したが、今も民芸が好きな気持はかわらない。

人それぞれに自分の基準となる「ものさし」を持っていると思う。私のそれは倉敷でできたと言っていい。そして今もその「ものさし」を大切にしている。この連載では倉敷での弟子入り生活と師の教えを回想しつつ、日々の暮らしを楽しむための品々を紹介できたらと思っている。

(『言語』2007年1月号 大修館書店)

つくる つかう たのしむ

2007年1月から12月まで、大修館書店発行の月刊誌『言語』の巻頭カラーエッセイを12回連載させていただきました。「つくる つかう たのしむ」というタイトルの連載でした。その時の文章と写真をここに掲載して、皆さんに読んでいただきたいと思います。

写真はカメラマンの米谷享さん、写真と本文のデザインは横須賀拓、大修館編集部の小林奈苗さん、撮影に場所を提供して下さった友人の半田ナナ子さん、いまさらながらありがとうございました。