第1回 倉敷本染手織研究所のこと  横須賀雪枝

白壁の町並みが美しい倉敷美観地区。その中に「倉敷本染手織研究所」という小さな私塾がある。昭和28年に倉敷民芸館初代館長であった故外村吉之介が自邸を開放して開いたもので、染織と民芸について、夫妻と生活を共にしながら弟子入りのようなスタイルで一年間学ぶ学校である。私は丁度時代が昭和から平成にかわる頃、その研究所へ二年間在籍した。

「民芸」とは、昭和2年に思想家の柳宗悦「民衆的工芸品」を縮めて作った言葉で、庶民が作る健康的で無駄がなく威張らない美しい手仕事の品々のことを指す。そして民芸品の美しさを世に広めていくのが民芸運動である。

外村吉之介は、もともと牧師であったが、柳が民芸運動を始めるとすぐに参加して、それ以後は民芸ひとすじに生きてきた人であった。

師はいつも縞の着物にたっつけ袴という装いで、家具、食器、ごみ箱に至るまで、家のものはすべて美しい品々であった。日本各地の民窯で焼かれた陶器、世界中から集められた絨毯や布、師の眼にかなわないものは何一つ家の中に入ることはできず、それは私達の衣服についても同様で、派手な模様など着ようものならすぐに叱られた。師は厳しかったが「そのような服は貴女を引き立てません。無地や縞の方が美しくみえます」と説かれるとなるほどと納得してしまうのだった。そして色のきれいなブラウスなどを着ている時は必ず褒めてくれ、自分の選んだものが評価されることはうれしかった。戸惑ってばかりだった私も、師が実践する民芸的な暮らしを自然に受け入れるようになり、いつしかその虜になってしまった。

写真は私が研究生時代に織った木綿の着尺である。紺と朱を経糸にし緯糸は白で織った市松模様。一筬(ひとおさ)打ち込むだけではほんのわずかしか織れないが、黙々と織り続けると「糸」が「布」にかわっていく。気の遠くなる作業だが、織り上がった着尺を機から外す時、この手で布を生みだしたことを実感する。その瞬間が手織をする中で一番うれしい時なのかもしれない。

私は研究所を卒業後、染織の道に進むつもりだったが、民芸の面白さに惹かれていくうちに縁あって柳宗悦が創設した東京の日本民芸館の中で『民藝』という雑誌の編集をしながら、八年間を過ごした。育児のために退職したが、今も民芸が好きな気持はかわらない。

人それぞれに自分の基準となる「ものさし」を持っていると思う。私のそれは倉敷でできたと言っていい。そして今もその「ものさし」を大切にしている。この連載では倉敷での弟子入り生活と師の教えを回想しつつ、日々の暮らしを楽しむための品々を紹介できたらと思っている。

(『言語』2007年1月号 大修館書店)

コメント(2 件)

  1. ララ主婦

    前に、実家から持ってきていた、古い糸巻きと、
    機織りの際、糸の先に付いている道具、
    流線型の、木の、道具を出しました。
    織機は、もう跡形も亡いですが、
    ひーばあさん、おばあさんが、
    農閑期に、手仕事で、生活を、支えていたらしいです。
    多少すすけていますが、
    実家の歴史を感じますし、
    大事にするつもりです。
    おまけに、自分の、気まぐれながら、
    手仕事の、上達も、願って、大切にします。

    • yuzuriha

      ララ主婦さん。昔の人たちの暮らしに手仕事は自然にありましたが、それがかたちとなって残っていて自分のルーツであるおばあさまやひいおばあさま達が使っていたとわかるなんて、とてもいとおしいですね。それを持っているだけで、手仕事が上達しそうな気持、わかります!手仕事の守り神、きっとついてますね。

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